読書

文春文庫の太宰治を全部読みきった。

掲載されているタイトルは以下の11作品になる。

 

斜陽、人間失格、ダス・ゲマイネ、満願、富嶽百景、

葉桜と魔笛、駆込み訴え、走れメロス、トカトントン、

ヴィヨンの妻、桜桃

 

他、太宰治伝と作品解説、太宰治年譜付き。

 

全体を通じて、読んで良かったと思っている。

楽になったというか。
書籍を読んだ感想としてはおかしなものかもしれないが。

生きていれば悩みは耐えないが、

過去に生きた人間も同じような悩みを抱えていたという事が

太宰の作品でとても良くわかるのだ。

そしてそれを書いたのは誰もが知る文豪であり、

共感している人もたくさん居るのだと思うと心強くもある。

 

もちろんそれだけではなく、作品としての巧みさ。

文豪たる所以を要所要所で垣間見る事もできる。

 

ただ、全面肯定はできない。

今を生きる人間として自ら生きる事を放棄した人間を
肯定するわけにはいかんのだ

 

だが作家としての彼の偉業は、認めざるを得ない

 

作中では手紙や手記をもちいることが多く、
自殺を題材としたものが多い。

素直な気持ちで書くことができる手紙と、結論としての自殺。

それは太宰自身の葛藤からくるもののように思える。

 

結果、多くの作品は不幸な結末を迎える。
いや、不幸などと言う言葉一つで片付けてしまっては
太宰が浮かばれないか。

 

ダス・ゲマイネは太宰が雑誌に掲載され始めた頃の作品。
以前にもブログで書いたが、正直読みにくかった。

というのも、序盤で専門的な用語を多用するのである。

ある人物のキャラ付けの為に意図的に行ったのだと思う。

最後まで読めば、作品としての着眼点は本当に素晴らしい。

が、どうしても序盤の読みづらかったイメージが先行してしまい、

あまり面白かったと思えないのである。

 

しかし作品解説によると、太宰はこの作品、

ダスゲマイネに絶対の自信を持っていたようだ。

 

どうもすいませんでした。

まぁ太宰自身も、万人受けする作品を
狙って書いてるわけじゃなさそうだけど。

 

富嶽百景とヴィヨンの妻は、逆に読みやすかった。

読み易すぎてスラスラと最後まで読んで、後に何も残らない。

ん?何を言いたかったんだ?と読み返してしまう程である。

 

富嶽百景は太宰の人生に置いて

もっとも平坦な時に執筆されたと作品解説に書かれている。

なるほど、納得してしまった。

でもヴィヨンの妻は後期なのだけれど。

 

素直に感情を揺さぶられたのは走れメロス。

しかし作品解説には

太宰の作品の中では異質であると書かれている。

確かにそうだ、他の作品とは毛色が違う。

 

だからこそいい。

 

しかしそう言い切ってしまうと、

「あれ、俺、太宰と合わないんじゃ…」

と思ってしまう部分もあるのだが。

 

駆込み訴えは、自分なりの解釈をもって

「ユダ」を作ってみたいと思わせられた作品。

クリエイターとして面白い題材だなと関心してしまった。

 

そして桜桃や満願、葉桜と魔笛の巧みさには感動した。

トカトントンの意外性には目を丸めた。

実は有名どころよりも短編が好きになってしまったようだ

しかしどうも、太宰の思いと、作品解説と、俺と。

合ってないというか。

個人の好みと言ってしまえばそこまでなんだろうけど。

あえて言わせて貰おう。

 

いろんな解釈があっていいじゃないか

全体的に楽しく読書できたのは間違いないし。

10年後に、また同じ本を読んだら、同じ感想になるだろうか。
当時こんな感想を持っていたんだな。
そんな風に思えればよいとな、感想文を書き始めた。
俺が学生の頃に書いた作文とか
一枚も残ってないんだよね…太宰が亡くなった年齢になり、たまたま太宰を手にとり
読み始め、感想をかき始めたという奇妙な運命に感謝。人生どん詰まり、思い悩んでいる人に
太宰作品をおすすめしたい。
下手な自己啓発本よりも自己啓発になるよ。

電子書籍なら無料で見れます。さて、これで太宰はひと段落。

読んでない本が5冊もたまっているぞ…
次は何を読もうか。

読書

太宰の「ヴィヨンの妻」を読んだ。

深夜、妻が寝室で寝ていると物音で起きる。
旦那だと気にもしなかったが、その日は様子が違った。
ある夫婦が家を訪ねてくるのである。

旦那は、ナイフを振りかざして逃げる。

妻は夫婦を自宅に招きいれ、事情を聞く。
「旦那に大金を盗まれた」と言う。
警察沙汰にまでしたくは無いので、自宅までつけてきたらしい。

妻は旦那の行き先にもお金にも当てが無く途方にくれるが、
夫婦の営む居酒屋で働くことにする。
そして、その居酒屋に再び、女を連れた旦那が現れて…

というお話。

妻がフワフワとしている為に、修羅場も修羅場にならない。
旦那がナイフで逃げた時も夫婦から話を聞いている途中で
おかしくなって笑ってしまうし
旦那がほかの女を連れて居酒屋に来てもさして気にせず。

途方に暮れたのは、旦那が盗んだお金を返す当てがなく
思案している時だけ。

居酒屋で働き始めると思いの他、楽しくなってしまう。
旦那は旦那で、あいかわらず居酒屋に通い
いつしか、妻を待ち一緒に帰るようになる。

その生活が楽しく、幸福であるという妻。

ある日、新聞に旦那の記事が載る。
「エセ貴族の快楽主義者、人非人」と批判されていた。
それを見て、盗みの理由が旦那の口から告白される

「家族に贅沢をさせてやりたかった」
「家族の為にやったんだから、人非人ではない」

妻は、特別喜ぶこともなく、
「私達は、生きてさえいればいいのよ」
と応えて物語は終わる。

詩人作家でモテモテ遊び人の旦那(笑)に対して妻は、
当たり前のように寄り添っているが、
旦那を責める事もなく、その対応はどこか淡々としていて、
諦めのようなものも感じてしまう。
その様が、また妙に魅力的に見えるのだ。

諦めにも似た信頼、愛?そういうのもあるのか…

全く見返りもなく、世間体や責任だけで
これだけ無条件に尽くせるものではないと思う。
妻はなんらかの見返りを得ているのだ。
それは物質的な何かではないだろう。

それが何か、この旦那にはわかっているのだろうか
もしわかっていないのだとしたら、
旦那にとってそれは、恐ろしいことかもしれない。
批判さえされないという事は、そういう事なのだ。

実は、この物語を読んで、
最初は富嶽百景の時と同じ思いだった。
感想がでてこない。

しかし、これまで太宰の作品を読んできたからだろうか。
思いを巡らせると不思議と感想が溢れてくる。
太宰の思いが、少し伝わったような気がした。

買った書籍に載っている太宰の作品はこれで最後。
次は解説欄でも見ながら総評でもしようと思う。

なぜそんな事をするのかと言うと、
太宰が自信を持って世に出したらしい作品を
このブログでは結構否定的…げふんげふん

いろいろな解釈があるわけだし、
そんなところを少し、補正したいと思う。

読書

太宰の「トカトントン」を読んだ。

誰も言わないだろうから俺が言ってやる。
太宰よ!いいのかこれで!こんなのありか。いいけど。
いいか。

…終戦後、郵便局に勤めている男がファンとして
ある作家に送った手紙。
それは質問状に近い内容だった。

男は、定期的に貯金に来る女中に恋をしていた。
しかしその貯金は、戦後間もない日本では異常な金額。
いつしか男は疑問を抱くようになる。

ある日、女中に声をかけられ、海に呼び出される。
そして貯金の話になった。
「おかみさんの貯金を代わりにしている」という内容だった。
男の疑念は晴れなかったが、その時、音が聴こえた。

「トカトントン」

金槌で釘を打つようなその音は
男から感情を、情熱を奪い去るものだった。
この音を聴くと、男はどうでもよくなってしまうのだ。
その後も男の胸を打つ事象が起こるたびに

「トカトントン」

と音が聴こえ、無気力になってしまう。
私はどうしたらよいでしょうか、という内容の手紙だった。

だったのだが。

最後。手紙を書いている途中でも度々

「トカトントン」

と音が聴こえていたと告白、
しんどくなってイヤイヤ手紙を書いていて
実は手紙の内容さえ適当で、あったかどうかもわからな

*      *
*     +  うそです
n ∧_∧ n
+ (ヨ(* ´∀`)E)
Y     Y    *

え?なんだって?
思わずこのアスキーアートを使いたくなる内容だった。
このAA、この作品のために生まれたんじゃないか。
だってこの話、9割はこの手紙の内容ですよ。
無かった事にしちゃうとか?衝撃的ではあるけれども!

「トカトントン」

なんだか俺にも聴こえたぞ。すごい話だなこれは。
しばらく目が点だった。マックで。

そして、この手紙を受け取った作家は短く返事をする。

拝啓、気取った苦悩ですね。あまり同情していません。
いかなる弁明も成立しない醜態を、避けているようですね。
真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするのです。

「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼るな」
「身と霊魂(たましい)とをゲヘナにて滅ぼしえる者をおそれよ」

この言葉でこの物語は幕を閉じる。

身に染みるお言葉。
醜態を晒す事を恐るるなかれ。

ただしい評価を得ようとしたら、
それは避けては通れない道なのかもしれない。
そしてその評価は道しるべになるのだ。

上辺で生きている者など恐れるな!
傷つくことを恐れない者こそ恐れるべきだ!

うーん…俺に言ってやりたいお言葉…
お前は駄目なやつだぞ…明日面接頑張ろうね…

しかし、太宰って手紙好きだな。
単純な創作よりも、誰かが書いた手紙を書くことに
リアリティを感じていたのかもしれない。

あれ、こんな話、小学校か中学校の授業で聞いたような。
当時は「ふーん」で済ませてしまったか。申し訳ない先生。

太宰に親近感もてました。ありがとう。
何か、今感動してます。

読書

太宰の「駆込み訴え」を読んだ。

師を殺してくれと懇願する男がいる。

差別をされてきたと言う。
意地悪くこき使われてきたと言う。
嘲弄されてきたと言う、耐えてきたと言う。

それでもさんざ庇ってきたが、
周囲は元より、師はその事に気がついてないのだ。
いや、気が付いていながら、なおあの態度。
と言うのだ。

師は聖人君子だった。
人望を集め、周囲から崇められていた。
師の世話をしてきた男は、師に言われるがままに
食料を準備し、民に分け与えた。

師は、パンがないのにパンを配ろうという。
それをどうにかやりくりし、実行してきたのはこの男。

この男は師を愛していた。
美しいと思っていた。だから尽くした。
見返りを求めていたわけではない、ただ一緒に居たいだけだった。
だがそれさえも手に入らないのだ。

師に想い人ができれば、男の想いは嫉妬に変わり、
殺意に変わり、そして、悪意に変わっていく。

というお話であった。
ようするに見返りが欲しかったのだろう。

無償の愛などないのだ。

人は常に見返りを求める。
それは物質的なものではないのかもしれない。
時間かもしれない、空間かもしれない。
その人にとって最も価値あるもののために
無償の愛は勝手に発動してしまう。
その見返りが、手に入っているうちはいいのだ。
いつか途切れてしまったら、その反動はすさまじい。

恐ろしい!
愛は悪意の根源にすらなるのだ!悪の素!怖い!
愛などいらぬわーふはははは!

え、こんな結論でいいのかな。俺はダメだと思うw
くっそ、なんてダメ人間なのだ俺は。
こんな男がいるのだから、世の中は不思議でいっぱいだ。

最後に、この物語の「男」は自分の正体を明かす。
まぁ裏切りの代名詞になるくらい有名な人なのだけど。

これ太宰流の解釈なのだろうか。
聖書とか読んでみないとわからないなぁ。
当時よく波風立たなかったものだ。
今こういう作品を発表したらいろいろと叩かれそうです。

-追記-
wikiで検索したところ、この解釈について
聖書にも詳しく書かれておらず
学者の研究対象になっているようだ。
いや文学って面白いな、うん。

読書

今日も太宰の短編を読んだ。

「葉桜と魔笛」

妹は腎臓結核を患っていた。
余命いくばくもない。
そんな妹に手紙が届く、差出人はMT。

姉はこの差出人を知っていた。
妹の文通相手だ。
自宅で手紙の束を見つけ、読んでしまっていた。
姉は手紙の密かな読者だったのだ。

妹の病気を知り、最後に送られてきたMTからの手紙。
その結末を知っていた姉は、
その手紙を焼き払い、筆跡を似せ、自ら書き直した。
それを妹に送ったのだった。

精一杯前向きな内容に変更され、妹に届けられた手紙。
しかしそれはすぐにばれる。

実は文通自体、恋愛経験のない妹の創作だった。
MTとは妹に創作された架空の人物だったのだ。

美しい姉妹愛だが、このお話はそれだけでは終わらない。
姉が妹に送った手紙の一文

「壁の向こうから毎日、口笛を吹く」

これが誰とも知れず、実行されるのだ。

短編ながらも、話が2転3転し、とても面白かった。
読みやすかった。
この内容なら、長編にすることもできたのでは。
短編になっている事自体を、太宰らしいと思った。

太宰の短編も、読んでいる本の中にはあと3話。
その他に別の著者の「太宰治伝」と「作品解説」がある。
作品解説は、あとで答えあわせのように読んでやりたいと思う。

太宰治伝は気が向いたら…
太宰の作品を読もうと買った本で
別の方の文面を読むってのがどうにも抵抗があるんだよな…