太宰の「ヴィヨンの妻」を読む

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太宰の「ヴィヨンの妻」を読んだ。

深夜、妻が寝室で寝ていると物音で起きる。
旦那だと気にもしなかったが、その日は様子が違った。
ある夫婦が家を訪ねてくるのである。

旦那は、ナイフを振りかざして逃げる。

妻は夫婦を自宅に招きいれ、事情を聞く。
「旦那に大金を盗まれた」と言う。
警察沙汰にまでしたくは無いので、自宅までつけてきたらしい。

妻は旦那の行き先にもお金にも当てが無く途方にくれるが、
夫婦の営む居酒屋で働くことにする。
そして、その居酒屋に再び、女を連れた旦那が現れて…

というお話。

妻がフワフワとしている為に、修羅場も修羅場にならない。
旦那がナイフで逃げた時も夫婦から話を聞いている途中で
おかしくなって笑ってしまうし
旦那がほかの女を連れて居酒屋に来てもさして気にせず。

途方に暮れたのは、旦那が盗んだお金を返す当てがなく
思案している時だけ。

居酒屋で働き始めると思いの他、楽しくなってしまう。
旦那は旦那で、あいかわらず居酒屋に通い
いつしか、妻を待ち一緒に帰るようになる。

その生活が楽しく、幸福であるという妻。

ある日、新聞に旦那の記事が載る。
「エセ貴族の快楽主義者、人非人」と批判されていた。
それを見て、盗みの理由が旦那の口から告白される

「家族に贅沢をさせてやりたかった」
「家族の為にやったんだから、人非人ではない」

妻は、特別喜ぶこともなく、
「私達は、生きてさえいればいいのよ」
と応えて物語は終わる。

詩人作家でモテモテ遊び人の旦那(笑)に対して妻は、
当たり前のように寄り添っているが、
旦那を責める事もなく、その対応はどこか淡々としていて、
諦めのようなものも感じてしまう。
その様が、また妙に魅力的に見えるのだ。

諦めにも似た信頼、愛?そういうのもあるのか…

全く見返りもなく、世間体や責任だけで
これだけ無条件に尽くせるものではないと思う。
妻はなんらかの見返りを得ているのだ。
それは物質的な何かではないだろう。

それが何か、この旦那にはわかっているのだろうか
もしわかっていないのだとしたら、
旦那にとってそれは、恐ろしいことかもしれない。
批判さえされないという事は、そういう事なのだ。

実は、この物語を読んで、
最初は富嶽百景の時と同じ思いだった。
感想がでてこない。

しかし、これまで太宰の作品を読んできたからだろうか。
思いを巡らせると不思議と感想が溢れてくる。
太宰の思いが、少し伝わったような気がした。

買った書籍に載っている太宰の作品はこれで最後。
次は解説欄でも見ながら総評でもしようと思う。

なぜそんな事をするのかと言うと、
太宰が自信を持って世に出したらしい作品を
このブログでは結構否定的…げふんげふん

いろいろな解釈があるわけだし、
そんなところを少し、補正したいと思う。

読書

Posted by きかんほうさん