読書

ようやく漱石の「こころ」を読破した。

いよいよ余裕がなくなってきて就活ガンガンしていたら
なかなか読む余裕がなくなってしまい今日に至る。
ちなみに明日も面接である。台風なのに。

「明日、面接ですけど大丈夫ですか?」
「大丈夫です」

このやり取りになんの意味があるのだろうか。
立場の低い者はこころを殺さねばならない。
そこを汲み取ってやれる人間になりたい。

漱石の作品「こころ」の登場人物である「私」は
夏の鎌倉で「先生」に出会う。

静かで知的で、それでいてどこか陰のある「先生」に
「私」は惹かれてしまい、自宅にまで尋ねるようになる。

誰も連れず一人で行きたいという墓参り。
妻との静かなケンカ。

違和感を感じる「私」は
その理由を先生に聞くのだが、先生は答えてくれない。

しかし

他人でありながら躊躇無く自分の中に飛び込んでくる
「私」に、先生は少しづつ心を開き
いつか時がくれば全てを語ると約束する。

そんな折、実家から「私」に
父の危篤を知らせる手紙が届く。

遠方の実家に戻った「私」は
危篤の父と先生とを比べてしまう。

先生とは正反対と言える父親

だが話す時間が増えるうちに
父親の事も理解できていなかったと感じる「私」

そして父もいよいよという時に
先生から書類とも言うべき手紙が届くのだ。
その内容は、いつかの約束を果たすものであり、遺書だった。

先生は妻と親友と、三角関係にあった!
先生は妻に求婚!結婚!親友は死んだ!
うわああああああああ…

俺が書くと3行になってしまうが
そんな事は無いから安心して欲しい。

先生はその苦悩に満ちた日々を
分厚い手紙に綴っていたのだ。

物静かな先生は、引っ込み思案なところがあって
人に想いを伝えることが苦手。
身内に裏切られた事もあり、まず人を疑ってかかる。

親友「K」は逆のタイプ。
普段は物静かだが、わりに言いたい事を言える。
理想主義者かな。
自分の理想の為に身内を裏切った事もあり
矛盾を抱える。

後に先生の妻となる娘は
若さと美しさと無邪気さを兼ね備えた才女
愛想も良くて、大体の男はこの手には弱いたぶん

先生にとって親友「K」は信じるに足る人物だが
自分が援助した事によって自分が想う娘と接近してしまう。
そしてKから、娘を好きになった事を告げられると
娘を取られてしまう焦燥感に苛まれ、婚約を急ぐ。

「K」は、先生と娘が結ばれる事により
親友と最愛の人を同時に失い、自害。
身内に裏切りの告白をした後、勘当され孤独だった彼には
きつすぎる薬だった。

先生にとって不幸な事は、
「娘」が「K」の想いに気が付いていない事である。
自分達が結ばれた事が「K」の自害の一因になっていると
娘は気が付いていない。

まぁこれは先生が思っているだけで
実は薄々とではあるが気が付いている節もあるのだけど。

そして、妻に同じ苦悩を味あわせてしまう事を恐れ
全てを打ち明けることができない先生は

妻に理解されず
また、理解される方法を実効する事もできず

苦悩の末、遺書を残すのである。

しかし、三角関係って一体いつの時代からあるのだろうか。
ひょっとしたら原始時代からあるのか?
ありそうで困る。

愛がもつれると大変だ。
つまり愛などないのだ、愛は凶器なのだ。
時に争いの火種になり犯罪の種になり

ああ、愛などいらぬわーぐわははは
ん?これ前にも言ったかな

などと思いながら、身を焦がし己を破滅にさえ導くような
熱すぎる恋というのを人生で一度くらいはしてみたいものだ。

恋や愛に勝るものが文明社会にあるだろうか。
それの為に命を燃やすのもありか。
歳置いてあらゆる可能性が狭められてくると
そんな事も肯定したくなるのだなと、考えてしまうのであった。

おお、俺、結構危険だな。
あぶねえ。
いや変態じゃねーから!大丈夫よ。

終わり。

読書

漱石の作品を読み始める。
有名どころ、「坊っちゃん」である。

坊っちゃん、とても読みやすくて先も気になるし、
一日で全部読んでしまった。

俺は有名作品について、奇妙な先入観を持っていたりする。
学校の授業や人から聞いた知識を半端に持っているからだろう。
坊っちゃんに関しても全く間違ったイメージを持っていた。

「金持ちのお坊っちゃんが東京の下町あたりで
半ば道楽のような生き様を見せる物語」

一体、いつ付いたんだこのイメージは…
おかげであまり面白くなさそうだと思っていた。

作中の坊っちゃんは、
元お金持ちという感じで、今はお金持ちでもない。
話の内容も、現代版半沢直樹。
時代劇といった方がわかりやすいか、水戸黄門とか。

荒くれ者の坊っちゃんは家族からは見放されていたが
女中の清にだけはとても愛され、「坊っちゃん」と呼ばれていた。

親を失い、兄が家督を継いだが
家がなくなるので一家離散、清とも別離である。

坊っちゃんは貰ったお金で物理学校に入学、
無事卒業後、四国の学校で教職につく。

悪知恵の働く教頭の赤シャツ、
取り巻きの野だ、
教頭に言われるがままの校長、狸

彼らの策略にはまり、七転八倒するのだ。

ちなみに「赤シャツ」とか「野だ」とか「狸」とかは
坊っちゃんが密かにつけたあだ名である。
作中このあだ名が使われて話が進む。

曲がった事が大嫌いな坊っちゃん。
姑息な教頭が気に入らない。
教頭は暗に、自分の取り巻きに入れ、
というようなそぶりを見せてくるが、ことごとく反発。

教頭の計略、噂話の吹聴や学生を使った嫌がらせなど
なかなかに見事なもので、坊っちゃんは
わけがわからぬまま振り回されていく。

最後には同じ数学教師の山嵐と結託して
教頭に天誅を下し、東京に帰る。

教頭の策略に振り回される辺りはなんだなんだ?と
ちょっとしたミステリー。
のちに理解者となる山嵐と坊っちゃんを対立させる辺り、
小悪党ながら、なかなかの手腕である。
おもわずフムフムと読みすすめてしまう。

最後、警察沙汰覚悟で天誅を下すんだけど、
ちょっと刺激が強く感じたのは平和ボケの証か。
不条理な悪意に対して暴力で対抗である。

しかし今、この赤シャツみたいな教頭ほんと笑えない。
いたるところでこんな人が暗躍してそうで。
ていうかいるよね?会社に何割というくらい、いるんじゃないか。
世の中、悪党の方が基本強いんだよなぁ…

現在の職責よりも法律よりも、正義を優先した教師二人。

今こんな事をしたら大バッシングで大変だ。
だが、そういうしがらみが多い現代だからこそ、
こういう真っ直ぐな人たちが必要なのかもしれない。

坊っちゃんは、結果的に仕事を追われてしまったけど、
世の中の不条理に一矢報いたのだ。

ざまーみろ赤シャツ!

しかし、この手の小賢しい悪意に対抗する
有効な手段は暴力以外にないのだろうか。
裁判だとか、一般人には死んだシステムに見えるし。
自問自答である。

読書

マーフィー眠りながら成功する(上下)を読んだ。

 

著者はジョセフ・マーフィー。

マーフィーの法則で有名な人である。

 

苦手な洋書の翻訳本。

同じこと繰り返し繰り返し言われてる気がするんだよな。

英語ってそうなのかな?

 

内容的には、潜在意識の利用法について、である。

さて潜在意識とは。

 

考えてみるとよくわからない。

漠然と、意識の裏側?深層心理?そんなものだと思っていた。

 

以前、本か何かで読んだ知識だが、

アカシックレコードというものをご存知だろうか。

現在、過去、未来の全生命の記憶の倉庫。

それを覗く事ができれば全ての知識を手に入れたのと同義である、

全知全能のデータバンク。

 

マーフィーの潜在意識はそれに近いかな?

と最初は思ったけど、それとも少し違う。

 

マーフィーの言う潜在意識とは、もはや因果律そのもの。

神の領域。むしろ神だ。

それをコントロールしようと言うのだ。

 

そうする事で自己能力の向上ばかりか、

運命さえも変えてしまう。

 

なんということだ。

この本を読んだ全員が等しく幸せになれるではないか。

全員アメリカ大統領になる事も可能だ。

 

常識さえも捻じ曲げろ!

 

まぁ、言うは易し。そんなに簡単にいくわけもなく

潜在意識のコントロールは難しい。

 

その方法とは、ぶっちゃけると自己暗示。

 

人が最も潜在意識に触れやすいのは睡眠時。

しかし、睡眠中は自分で意識のコントロールができない。

 

なので狙うのは眠る直前である。

 

呪文のように理想の自分や、困難に打ち勝つ自分を想像して

信じて、祈ってから眠りにつくのである。

 

よく、見たい夢を紙に書いて、枕の下にひいておくと

そんな夢が見れるという。

ああいうの利用したら良いのではないかな。

 

だがそれでも潜在意識に訴えかけるのは難しい。

なので普段からそういう自分を想像することを心がける。

 

すなわちポジティブシンキング!いえ~い!

普段から前向きに生きまっしょい!

 

わっしょ~い!

 

ネガティブでは潜在意識に逆の作用が起こってしまう!

誰かが不幸な目にあうのはその為だ!

 

人生の成功者は皆、成功を信じてやまないのだ!

 

必要以上の恐怖心もまた、潜在意識に作用する!

何事も恐れないことだ!

 

あと他人に害のある事も作用しませんのでね!

やましい願いをしてはいけませんよ!

 

 

この本には、潜在意識利用の具体例がたくさん書かれている。

自分の状況に近いものと照らし合わせて祈ってみれば、

より効果的である。

 

ただその為には、まずはこの本の内容と

潜在意識の考え方について120%信じなければならず、

俺のような疑り深い小者には難しいのであった…

 

泣ける。

読書

文春文庫の太宰治を全部読みきった。

掲載されているタイトルは以下の11作品になる。

 

斜陽、人間失格、ダス・ゲマイネ、満願、富嶽百景、

葉桜と魔笛、駆込み訴え、走れメロス、トカトントン、

ヴィヨンの妻、桜桃

 

他、太宰治伝と作品解説、太宰治年譜付き。

 

全体を通じて、読んで良かったと思っている。

楽になったというか。
書籍を読んだ感想としてはおかしなものかもしれないが。

生きていれば悩みは耐えないが、

過去に生きた人間も同じような悩みを抱えていたという事が

太宰の作品でとても良くわかるのだ。

そしてそれを書いたのは誰もが知る文豪であり、

共感している人もたくさん居るのだと思うと心強くもある。

 

もちろんそれだけではなく、作品としての巧みさ。

文豪たる所以を要所要所で垣間見る事もできる。

 

ただ、全面肯定はできない。

今を生きる人間として自ら生きる事を放棄した人間を
肯定するわけにはいかんのだ

 

だが作家としての彼の偉業は、認めざるを得ない

 

作中では手紙や手記をもちいることが多く、
自殺を題材としたものが多い。

素直な気持ちで書くことができる手紙と、結論としての自殺。

それは太宰自身の葛藤からくるもののように思える。

 

結果、多くの作品は不幸な結末を迎える。
いや、不幸などと言う言葉一つで片付けてしまっては
太宰が浮かばれないか。

 

ダス・ゲマイネは太宰が雑誌に掲載され始めた頃の作品。
以前にもブログで書いたが、正直読みにくかった。

というのも、序盤で専門的な用語を多用するのである。

ある人物のキャラ付けの為に意図的に行ったのだと思う。

最後まで読めば、作品としての着眼点は本当に素晴らしい。

が、どうしても序盤の読みづらかったイメージが先行してしまい、

あまり面白かったと思えないのである。

 

しかし作品解説によると、太宰はこの作品、

ダスゲマイネに絶対の自信を持っていたようだ。

 

どうもすいませんでした。

まぁ太宰自身も、万人受けする作品を
狙って書いてるわけじゃなさそうだけど。

 

富嶽百景とヴィヨンの妻は、逆に読みやすかった。

読み易すぎてスラスラと最後まで読んで、後に何も残らない。

ん?何を言いたかったんだ?と読み返してしまう程である。

 

富嶽百景は太宰の人生に置いて

もっとも平坦な時に執筆されたと作品解説に書かれている。

なるほど、納得してしまった。

でもヴィヨンの妻は後期なのだけれど。

 

素直に感情を揺さぶられたのは走れメロス。

しかし作品解説には

太宰の作品の中では異質であると書かれている。

確かにそうだ、他の作品とは毛色が違う。

 

だからこそいい。

 

しかしそう言い切ってしまうと、

「あれ、俺、太宰と合わないんじゃ…」

と思ってしまう部分もあるのだが。

 

駆込み訴えは、自分なりの解釈をもって

「ユダ」を作ってみたいと思わせられた作品。

クリエイターとして面白い題材だなと関心してしまった。

 

そして桜桃や満願、葉桜と魔笛の巧みさには感動した。

トカトントンの意外性には目を丸めた。

実は有名どころよりも短編が好きになってしまったようだ

しかしどうも、太宰の思いと、作品解説と、俺と。

合ってないというか。

個人の好みと言ってしまえばそこまでなんだろうけど。

あえて言わせて貰おう。

 

いろんな解釈があっていいじゃないか

全体的に楽しく読書できたのは間違いないし。

10年後に、また同じ本を読んだら、同じ感想になるだろうか。
当時こんな感想を持っていたんだな。
そんな風に思えればよいとな、感想文を書き始めた。
俺が学生の頃に書いた作文とか
一枚も残ってないんだよね…太宰が亡くなった年齢になり、たまたま太宰を手にとり
読み始め、感想をかき始めたという奇妙な運命に感謝。人生どん詰まり、思い悩んでいる人に
太宰作品をおすすめしたい。
下手な自己啓発本よりも自己啓発になるよ。

電子書籍なら無料で見れます。さて、これで太宰はひと段落。

読んでない本が5冊もたまっているぞ…
次は何を読もうか。

読書

太宰の「ヴィヨンの妻」を読んだ。

深夜、妻が寝室で寝ていると物音で起きる。
旦那だと気にもしなかったが、その日は様子が違った。
ある夫婦が家を訪ねてくるのである。

旦那は、ナイフを振りかざして逃げる。

妻は夫婦を自宅に招きいれ、事情を聞く。
「旦那に大金を盗まれた」と言う。
警察沙汰にまでしたくは無いので、自宅までつけてきたらしい。

妻は旦那の行き先にもお金にも当てが無く途方にくれるが、
夫婦の営む居酒屋で働くことにする。
そして、その居酒屋に再び、女を連れた旦那が現れて…

というお話。

妻がフワフワとしている為に、修羅場も修羅場にならない。
旦那がナイフで逃げた時も夫婦から話を聞いている途中で
おかしくなって笑ってしまうし
旦那がほかの女を連れて居酒屋に来てもさして気にせず。

途方に暮れたのは、旦那が盗んだお金を返す当てがなく
思案している時だけ。

居酒屋で働き始めると思いの他、楽しくなってしまう。
旦那は旦那で、あいかわらず居酒屋に通い
いつしか、妻を待ち一緒に帰るようになる。

その生活が楽しく、幸福であるという妻。

ある日、新聞に旦那の記事が載る。
「エセ貴族の快楽主義者、人非人」と批判されていた。
それを見て、盗みの理由が旦那の口から告白される

「家族に贅沢をさせてやりたかった」
「家族の為にやったんだから、人非人ではない」

妻は、特別喜ぶこともなく、
「私達は、生きてさえいればいいのよ」
と応えて物語は終わる。

詩人作家でモテモテ遊び人の旦那(笑)に対して妻は、
当たり前のように寄り添っているが、
旦那を責める事もなく、その対応はどこか淡々としていて、
諦めのようなものも感じてしまう。
その様が、また妙に魅力的に見えるのだ。

諦めにも似た信頼、愛?そういうのもあるのか…

全く見返りもなく、世間体や責任だけで
これだけ無条件に尽くせるものではないと思う。
妻はなんらかの見返りを得ているのだ。
それは物質的な何かではないだろう。

それが何か、この旦那にはわかっているのだろうか
もしわかっていないのだとしたら、
旦那にとってそれは、恐ろしいことかもしれない。
批判さえされないという事は、そういう事なのだ。

実は、この物語を読んで、
最初は富嶽百景の時と同じ思いだった。
感想がでてこない。

しかし、これまで太宰の作品を読んできたからだろうか。
思いを巡らせると不思議と感想が溢れてくる。
太宰の思いが、少し伝わったような気がした。

買った書籍に載っている太宰の作品はこれで最後。
次は解説欄でも見ながら総評でもしようと思う。

なぜそんな事をするのかと言うと、
太宰が自信を持って世に出したらしい作品を
このブログでは結構否定的…げふんげふん

いろいろな解釈があるわけだし、
そんなところを少し、補正したいと思う。