太宰の「斜陽」を読む

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今日は一日岩盤浴にいた。
空いていた時間で、太宰の「斜陽」を読んだ。

戦争で稼ぎ頭を失い、バラバラになっていく没落貴族の話。
蓄えだけでしばらく過ごすが、女中を雇っているような大所帯。
長く維持できるはずもなく…
それでも母親の存在が家庭を維持していた。

しかし程なくして、母親も病死。
残された家族は、いよいよどうしようもなくなっていく

娘であるかず子は、密かな恋に救いを求めていく。
そして、弟の長治もまた、人知れず恋に焦がれていた。

正反対なようで、似たような感情に救いを見出していた二人。
女は、恋を愛にまで昇華することで、
1人でも生きていく強さを身につける
男は、数々の矛盾を抱えたまま、自ら道を閉ざすのである。
人間失格と同じく、あまり良い結末とは言えないかもしれない。

作中、この言葉が酷く印象に残る

「人間は皆、同じものだ」

傷ついた人間を慰めるように使われる、普遍的な言葉。
作中の長治は、この言葉を酷く嫌う。皆同じであるものか、と。

普通の定義はあいまいである。
普通の範囲とはいか程か。誰も答えがわからないのに、
社会において「普通」とは、もはや崇拝に近い言葉で使われる。
だがそれは、人の立場によって多様に変化してしまう。

自らを「普通以下である」と、自覚している人間に対して、

「人間は皆、同じものだ」

という言葉を吐いたなら、それはどのように受け止められるだろう。
重圧になるのではないだろうか。
自らの低い立場を自覚し、普通を求めて、同じを求めて、
上を目指して高みを目指して、底辺からの努力を余儀なくされる。
それはとても辛い事なのではないだろうか

自らを「普通以上である」と自覚していた人間に対して、

「人間は皆、同じものだ」

という言葉を吐いたなら、それはどのように受け止められるだろう。
落ちぶれたという絶望感しか与えないのではないだろうか。
救いを求められる立場から、救いを求める立場に落ちた絶望感。
傲慢な自分を自覚しつつも、元上流であると蔑まれ、
普通に馴染めず、絶望するのではないだろうか。

慰めに使われる言葉なのに、その意味を成さない。
上辺だけの偽善的な言葉。
作中の長治が、太宰が、嫌悪感を抱くのも無理はないと
共感してしまった。

これまで、自分が吐く言葉に対して、
それほど深い疑念を持つことはなかった。
言葉は当たり前のように、条件反射のように発せられる。
相手も同じ意味合いで受け取ってくれると、勝手な期待を乗せて。

しかし、もし、話し手と聞き手が
全く違う意味合いで言葉を理解していたら。
それは会話と言えるのだろうか。
なんだか怖くなってしまった。

会話にはリズムがある、テンポがある。
それらを維持しつつ、最適な言葉を選んで会話する。

あ~~~~~~~~~~
そんなん無理じゃん~~~~~~~
難しいよ~~~~~~~~~~~~~~~~~
あへあへ

電池が切れた。終わり。

読書

Posted by きかんほうさん