芥川の「芋粥」を読む

芋粥,芥川龍之介,読書

件題の通り。
久しぶりに芥川を読む。

「芋粥」

藤原基経に仕える冴えない侍。
歳は40頃。位は5位。
5位は昇殿を許された侍階級の最下位だそうで、
でも5位から4位に上がるのは至難。

つまり現在で言うところの
窓際社員、といったところだろうか。

この人どうやってこの会社に入ったの?
と思われている人であり、
普段なにやってるの?と影の薄い人である。

ようするに誹謗中傷の的なのだが、
本人はさして気にするでもなく。

自分にとって不利益が生じても、何も言わず
ほとぼりが冷めるのを待つ、そんなタイプの人間。

「おまえは俺か」

まじめにそう思ってしまった。
いったい何を楽しみに生きているのだろう。
この甲斐性なし!

どっこい、彼にも楽しみはある。
彼自身が意識したものではなく、無意識のうちにそれが、
彼の生きる目的のようなものになっていたのである。

それこそが「芋粥」。

藤原基経の時代は西暦836~891年。
この時代の芋粥は高級品であった。

殿様でもなければ日常的に食べられるものではない。
しかし、配下の者にも行事や客人への応対時には
振舞われる事があったのだ。

それは少量なのだが、この物語の男は
その芋粥が大好きで。
どのくらい好きかというと、他の料理には手をつけず
芋粥を食った後のお椀をじっと見つめてしまうほど。

ある日、客人との食事で
「いつになったら、これに飽けることかのう」と呟く。
その言葉をしっかり聞いていた客人、藤原利仁。
彼は彼にこう告げる

「お望みならワシが飽きさせてやるでお~!どうよこれ」
そうして、本当に利仁は彼の願いを叶えようとする。

だが、主人公は大量の芋粥を前に臆してしまうのだ。
大好きな芋粥だが。
これまでそれを食べる事を楽しみに生きてきた。
生きてこれた。
それが目の前に大量に現れて。

「これは飽きる…。」

飽きた先の事など考えた事はなかった。
だから臆してしまうのだ。なんて気が小さいんだ。

ああ、これは太宰の人間失格と同じだ。
目の前の幸せに恐怖して逃げだすのだ。

それを求めて生きてきたはずが、
手に入ってしまえば目的を見失ってしまうかもしれない。
人生の変化、そんな恐怖を眼前に。

本当に欲しいものさえ投げ出してしまう。

世の中、文明は進歩しても、人間は変わってない。
こういう物語を読むと本当にそう思う。
そしてその事で少しホッとする自分もいる。

叶わぬ為に繰り返した手段が
いつしか目的にかわってしまっていたのだった。

話はかわってこの物語、
芋粥と一緒にいくつかの料理が登場する
筆者は、あくまでも当時の高級料理として

「今と違い質素な料理」
「品数は多いがろくな物はない」

と書いているのだが、その料理は以下の物となる。

・餅
・伏菟(餅を油であげたもの)
・蒸あわび
・干し鳥
・宇治の氷魚
・近江の鮒
・鯛の楚割(塩干の鯛を細かく割いたモノ)
・鮭のこごもり
・焼きタコ
・大海老
・大柑子
・小柑子
・橘
・串柿
・芋粥

中にはよくわからない食べ物もあるが
餅にアワビに干した鳥に鯛に…十分すぎる。
どこが質素だというのだ!
俺の大好きな旅館朝食のハイスペックバージョンだ。

これよりよいものって言ったらなんだろう
現在なら、ステーキなどを含めたフルコースになるのだろうか。
でも和食が好きな俺には十分すぎるメニューに思えた。

ここまで書いて、前にも文学作品で出てきた料理に
触れたことがあった気がして、過去の感想をざっと見たが
見つからなかった。気のせいだったかな。

しかし、料理を文字にするとうまそうに感じるのは何故だろう。

このメニュー、どこかで再現してくれないかな。
芥川の例のメニューです、なんちゃって。
俺が食いにいくよ。

オワリ。

読書

Posted by きかんほうさん